【記者ノート2008年】台湾少年工の大和魂


大和市内の台湾亭を訪れた呉さん

 「この道が宿舎から工場までの通勤路。みんなで軍歌を歌いながら約20分かけて歩いたんです」。大和市上草柳のアスファルトの道路を、近くに住む呉春生さん(79)は見つめ、60年余り前を振り返った。

 工場とは戦時中、旧日本海軍厚木飛行場(現米海軍厚木基地)北側の座間、海老名市にあった「高座海軍工廠(こうしょう)」。呉さんは、この軍需工場で、台湾出身の少年工約8000人のうちの1人として戦闘機などの生産に携わった。

 原っぱだった通勤路周辺は、今は住宅街。当時の面影はない。だが、忘られつつあった高座海軍工廠や台湾少年工のことを「この地域の人たちも、知っ ているかもしれない」といまは思う。今年10月、元台湾少年工の証言を記録した映画「緑の海平線~台湾少年工の物語」(郭亮吟監督、2006年制作)が県 内で初めて横浜市中区の映画館で上映されたからだ。

 映画は、同工廠の写真や映像、呉さんら元台湾少年工のインタビューで構成し、彼らが戦中、戦後をどう生きたかを描いている。上映は1週間だった が、盛況だった。制作者側との質疑応答では客席から「こういう映画をつくってくれてありがとう」という声も上がった。呉さんにも、映画を見た友人たちから 「君たちがこんなに苦労していたとは知らなかった」といった電話があった。

 日本は、戦時中の労働力不足を補うため、統治下にあった台湾から優秀な少年を動員した。呉さんは、1944年、15歳の時に同工廠へやって来た。 「働きながら勉強でき、国のためになると思い、希望に燃えて志願した」。実際には、勉強する時間はなく、物も不足していたため、ボロをまとい、げたをはい て過ごした。しかし、「誰を恨むわけでもなかった。『お国のため』という気持ちで頑張った」

 64年に、元台湾少年工を集め、在日高座会を結成。97年には「台湾少年工の足跡を伝えよう」と大和市内に台湾式のあずま屋「台湾亭」も建立し、1997年、同市に寄贈した。

 しかし、メンバーが高齢化するにつれ、同会の活動は先細りとなった。地域でも台湾少年工のことを知る人は少なくなったと感じていた。そんな時に、祖父から台湾少年工の話を聞き、映画化を決めた郭監督から、協力を求められた。

 呉さんは「生の声で伝えることは難しくなったが、幸い、台湾少年工の存在を描いた、素晴らしい映画が残った。若い人たちにも、私たちが国のため、大和魂を持って戦ってきたことを感じ取ってほしい」と話した。(鈴木貴暁)

(「記者ノート」は今回でおわり)

2008年12月29日 読売新聞)

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